第2回「信長とはどのような人物か?」

織田信長に学ぶ勝者の組織改革

第二回は織田信長の革新的行動を紐解く前にまずは織田信長の生立ちと
革新に至る思考の原点を見たいと思います。

第一回でもお伝えした通り、現代社会の流れの速さは一層増しています。
そのような中で今まで我々の脳にすり込まれ続けてきた「常識」が
足かせになるケースが多いのが現状です。

織田信長の人生は「常識」への「挑戦」の連続でしたが、
今回は織田信長、人生初めての挑戦であり、初めての「改革」の内容を
ご紹介します。

信長が生まれた時代は足利幕府体制下で、尾張国守護は三管領家の一つの
斯波家でありその守護代が織田家であり、
この織田家も織田伊勢守家と織田大和守家に分かれていました。

信長の家系は織田大和守家の家老である弾正忠家であり、
現代風に言えば尾張という会社の子会社の役員クラスぐらいの
役職だと考えられています。

織田信長は少年時代「尾張のうつけ者」と言われていたのは
ご存じの方も多いと思います。
こう呼ばれていた理由は腰に荒縄を巻いて瓢箪や火打石をやたらとぶら下げ、
髪は茶筅に結んで馬を乗り回していたからだといわれています。

父信秀の死後、こんなうつけ者の信長を跡取りとして適任と思う者も少なく、
多くの諸将は弟の信行を担ぎ上げようとしました。

この弟信行は礼節、品格ともに優れており、当時の「常識」では優等生でした。

しばらくして兄弟間の家督相続争いが勃発したのが1556年8月でした。

両軍が激しく激突。
この戦では信行側は多くの諸将が味方し、7,000人の兵士が集まっていました。

対する信長側はわずか800人しかいなかったとされています。
しかし、結果は信長側の勝利に終わったのでした。

この結果の裏には「非常識」=「改革」というものがあります。

当時の軍団・政治は合議制で決し、出兵の際には参加した諸将が
兵を出し合うという「常識」がありました。

優等生の織田信行はこの「常識」通りに行ったのでした。

しかし、当時の合議制はまとまりが悪かったため、行動も当然遅かった。
信長はこの「常識」を疑い、一層合理的な方法、効果的な行動を求めて
自分で動かせる800人を徹底的に訓練し、行動の早い軍隊を
組織したのでした。

当時では全く「非常識」な考え方を実践したのです。

以後信長の人生は「常識」への「挑戦」の連続であったが、
これが初めての挑戦であり、初めての「改革」だったのでした。

いわゆるこの「常識」が足かせになるケースが多いのが
現代の日本社会です。

例えば年功序列の評価制度や賃金制度を例にとってみましょう。

現在ではタブー化されつつある、マスマーケティング、
いわゆる大量生産・大量消費時代の副産物です。
マスマーケティングはタブー化されているのにその時代の評価制度が
いまだに残っているとは奇妙な話です。

当時は知恵の汗よりも体の汗を必要としていました。

当時の日本は製造業が主産業でした。
だから経験を増すごとに生産効率が向上し、成果を生み出すことができる時代
だったのでこういった評価制度が出来上がりました。

しかし、供給過剰になり、作っても売れない時代がやってきました。

また現代の日本はさまざまな業種が入り乱れていたり、IT業を例にとると
当時の日本には無い業種があったりと状況は変化しています。

最近では「ゆとり世代」など働く人の性格も変化しているのは
皆様にも周知の事実でしょう。

現代は体の汗よりも知恵の汗を必要としているのです。

時代が変わればやり方も変わる。

その流れの変化に取り残されないために、今ある「常識」に挑戦し、
自己を変革できる者こそ現代を生きる者の「常識」だと言えるでしょう。

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